「半世紀前の小田原町」
1964年の東京オリンピック開催から半世紀が経ちます。
小生の子供の頃の風景を思い出してみます。
1964年の東京オリンピック開催から半世紀が経ちます。
小生の子供の頃の風景を思い出してみます。
昭和39年(1964)のオリンピックが開催されてから50年が経ちます。
明治維新と共に、外国人が多く東京にも住むようになり、西洋料理の需要が高まりました。
三条実美や岩倉具視の支援により、明治5年(1872)2月に丸の内の馬場先門に開業したそうですが、開業当日に起こった「銀座大火」により焼失してしまい、その年の内に当時の築地3丁目で開業したそうです。
明治44年、現在の時事通信社のある所にあった「築地精養軒」
(京橋図書館資料より)
昨今、地図マニアが増えているようです。古地図には現在と比較して当時、今住んでいる場所が、昔どんな所であったのかや、歴史小説を読んで、町の名前や、雰囲気を楽しむ為に、様々な時代のものが、復刻されているようです。
先日、昭和6年(1931)の京橋区の地図を頂いたので、興味深く見てみました。
小生が小学校に上がった時の担任は、父の築地小学校の卒業式の写真にも写っていた女性の先生でした。昭和21年(1946)3月卒業の写真です。
当時はもう、還暦を過ぎていたかも知れません。祖母と大して年齢が変わらないと思っていました。
築地小学校旧校舎 (現、京橋築地小学校) (京橋図書館資料より)
「佃大橋」はもともと、「佃の渡し」として、江戸の昔からあったものが、「佃渡船」という東京都が運営していた無料の渡し船を経て、昭和39年8月27日に開通しました。
明石町側から見た「佃大橋」 まだ聖路加タワーは無い。
(中央区フォトギャラリーより)
首都高は、昭和39年(1964)の東京オリンピックに向けて、突貫工事で開通させた有料道路です。もう完成から50年が経とうとしています
築地川も埋め立てられて、環状線の一部になりました。
開通して間もなくの首都高。銀座内回りランプ付近。
銀座東急ホテルが、懐かしい。 (京橋図書館資料より)
以前、「館山の遠泳」という題で、昔の遠泳の事を書きましたが、中央区には千葉館山の大賀(おおか)という所に「館山臨海学園」と言う、小学校の臨海学校を行なう施設が6年前までありました。
館山臨海学園の入り口 (中央区フォトギャラリーより)
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