「半世紀前の小田原町」
1964年の東京オリンピック開催から半世紀が経ちます。
小生の子供の頃の風景を思い出してみます。
街路樹は、今と同じスズカケの木(プラタナス)でした。
歩道はおよそ30cm角の正方形のコンクリート板が敷き詰められていました。
不法占拠の植木鉢はこの頃からありました。
「防火用水」とタイルに書かれた石造りの桶が金魚鉢になっていたり、植木鉢になっていました。
ゴミ箱は外に蓋つきの長方形の箱があり、カラスにいたずらされないようになっていたり、ポリのゴミ箱はドイツ軍の軍服の様な緑っぽいグレーの色でした。
街燈はウチの町内では、オリンピックを祝賀する為に「銀色」に塗ってあり、日章旗を付けられるようになっていました。
晴海通りを都電が走っていて、今の築地6丁目交差点の所に「停留所」があって、「勝鬨橋」という名前でした。
都バスはまだボンネットタイプが走っていて、方向指示器は、ウインカーではなく、小さな20cm位の矢印の様な赤いパーツが鮪のひれが立つ様に下から90度上方向に出る構造だったのを思い出します。
3階建て以上の建物はまだ少なく、空がとても広かったのを憶えています。
車もまだ三輪トラックが多く見られ、ダイハツのミゼットが多く走っていました。
市場では、まだターレーではなく、「小車」と呼ばれる荷車や、小さな四輪の運搬機でした。
信号機は緑と白のゼブラ塗りの外板が付いているタイプで、今では見かける事ができません。
ふと思い立って書き綴った、とりとめのない、50年前の風景です。
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