「鉄道の日」
新橋~横浜間に蒸気機関車が走り始めてから142年が経ちました。
1872年10月14日(明治5年9月12日)現在の汐留から横浜の桜木町の間を日本で初めて鉄道が開通し、日本が飛躍的に西洋化する基になった出来事でした。
武家屋敷のあった場所に駅を作り、そこから海側を埋め立てて線路を敷いて行ったそうですが、それは沿線の住民が、蒸気機関車の煙突から出る煙に驚いて、火の粉が飛んできて火事になるのを恐れ、大反対したと言うエピソードがあったからだという説もあるからだそうです。
かつての汐留駅はありませんが、復刻された「新橋ステーション」が今も当時の面影を残しています。
小学生のころ、ここには0マイル標識の遺構が駅の構内にあって、標識と共に金魚の池がありました。
構内はいつも日通の黄土色のトラックをはじめ、色々な車が行き交っていました。
当時は駅に入ってもあまり咎めたりされず、自分なりに危なくないように、時々遊びに行っていました。
現在の「0マイル標識」
コンテナが積み上げられていたり、市場では見た事もない貨車や荷物列車の客車やスエ71と言う救援車がいつも手小荷物のホームの手前に停まっていたのを思い出します。
子供心に構内はやはり危ないと思っていたのでしょうから、よく友達と汐留の信号所の階段を上がって、到着する電気機関車や入れ換えのDD13を見に行っていました。
ここが飽きると、客貨車区を覗いて、ワキ10000のトップナンバーがいるかを確認し今度は手小荷物受取所に行き、下りの「さくら」から「富士」まで見てから帰宅していました。
因みにワキ10000のトップナンバーの貨車は、これ1両だけ違う色をしていて、いつも客貨車区の中に入れられていました。
また汐留の資材置場には階段があって、それを登ると京浜東北線が目の前を2mもない近さで通り過ぎて行きます。ここもお気に入りだったのですが、東海道線の列車が見えないので、最後は手小荷物の受取所が俯瞰して見える最高のお立ち台でしたので、列車を見に行くときにはそこが指定席でした。
いつも行く友人は私立の中学に進学してしまったので、汐留探検は小学校で終わってしまいましたが、中学に入ってからは、別の友達と竹芝、日の出、芝浦方面や品川機関区まで足を延ばすようになりました。
「鉄道の日」に思い出した「線路を追いかけていた日」の思い出です。
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