「柳橋」(やなぎばし)
台東区側は江戸中期より栄えた料亭が軒を連ねる華やかな町でした。
以前は、検番もあって、芸者衆が日々稽古をしていたそうです。
両国橋から柳橋方面を見る。 (京橋図書館資料より)
柳橋のたもとから舟を出して、川開きの時などは、多くの舟が涼を求めて「隅田川」に出て行ったことでしょう。
江戸末期は、新興の「新橋」、伝統の「柳橋」の2大花街が一世を風靡していたようです。
「柳橋」の贔屓筋は、上級武士や大店の店主などで、昔からの伝統とお座敷を楽しんでいた様です。
一方「新橋」の贔屓筋は、幕末の混乱で、薩長土肥の明治政府の基礎を作ったいわば武士でも身分の低い人たちでした。
ですから、「柳橋」の芸者衆は新興の明治政府の人たちを「成り上がり者」としてあまり好んでいなかったようで、彼らは専ら「新橋」を贔屓にしたようです。
そんな「柳橋」も水の汚染や、隅田川のカミソリ堤防などの建設で、風情も無くなり、今では検番も無くなり、芸者も料亭もほとんど姿が消えてしまいました。
今では橋のたもとの「柳」が往時の栄華を感じさせる物となっています。
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