「40数年前の築地」
築地市場の移転まで約2年です。
場内は東京都の土地ですから豊洲に移転します。
場外は私有地ですので移転せず、現状で商売を続けて行きます。
ふと、子供の頃の築地を思い出しましたので、思うがままに書いてみます。
日本橋から、当時の「魚がし」が移転して来て80年の月日が流れようとしています。
戦後の高度経済成長が始まった頃は、物流の進歩で遠くから新鮮なものがトラックや貨車、船などで運ばれて来る事が嬉しい事で、皆それを仕入れに各地から市場に集まってきました。
築地場内岸壁 (京橋図書館資料より)
関東近県からも夜行列車に乗って、買い付けに来る業者も沢山いて、築地は夜の11時頃から動き出していました。
セリが始まるまで地方から来た客は東銀座の東劇などで「オールナイトの映画」を見たりして時間をつぶしたりしていたそうです。
東銀座から築地方面を望む。
左のビルは松竹セントラル(今のADKビル) (京橋図書館資料より)
当時は今ほど駐車禁止がうるさくなかったので、新大橋通りの市場橋から正門までは道路に対して直角になるくらいに沢山のトラックやライトバンが我が物顔のように停まっていました。
昭和52年、市場橋上 (中央区フォトギャラリーより)
場内もトラックがひしめいていました。
築地場内市場、奥が海幸橋 (京橋図書館資料より)
場内の混雑も尋常では無く、年の瀬や初荷の時は喧嘩もしょっちゅう起きていたのを思い出します。
ターレーがまだ出始める頃までは「小車」という荷車で色々な物を運んでいたのでそれがぶつかったり、人を引っ掛けたり、道を譲るの譲らないのとチョットした事ですぐに怒鳴り合い、次に手が出ます。
築地場内市場 (京橋図書館資料より)
当時市場の魚類関係者は必ずと言っていいほど、長靴に「手鉤(てかぎ)」と呼ばれる、木箱を持ったり魚を引っ掛けたりする道具をさして持っていましたので、下手をするとそれで殴りかかられそうでした。
発泡容器が全盛なので、今では長靴に「手鉤」を入れて持ち歩く人も減りましたし、混雑もしていません。ケンカなど最近は見なくなりました。
今のように24時間営業のコンビニなどありませんから、バスを改造した移動式のラーメン屋が来ていたり、愛想のない親父が作るまずい深夜営業のラーメン屋などがありました。
今では保健所がすぐにすっ飛んで来るような店が大手を振って営業していた時代でした。
みんな働く人は人見知りでしたが、少し付き合えば人懐っこい人たちが多く、面白い人たちも沢山いました。
築地場内市場 (京橋図書館資料より)
近所に住んでいる人も多く、銭湯に行くと市場で会ったお兄さんが入りに来ていたりして、銭湯は小さなコミュニティーでした。
たいがい、銭湯のそばには駄菓子屋や一杯飲み屋みたいな店があり、大人も子供も新しいネタを仕入れていました。
銭湯の脱衣所には、怪獣映画の予告のポスターや劇場の広告、湯船の富士山の絵の下には「キャバレー」「皮膚科」「質屋」などの手作りの入替式の看板が目に付くようについていました。
築地は若い女性は昔から少なかったですが、店の「おかみさん」は絶対の存在で、オヤジがいなくても取り仕切りは「おかみさん」がちゃんと目を光らせていましたし、看板娘変わりになっていました。
築地場外市場 (京橋図書館資料より)
小さい小生がお使いに行った時は、「お駄賃」と称して、飴をくれたりお菓子をくれたりしました。
こんな事が当たり前の事だったシーンも今では懐かしく、近所付き合いが無くてはならない頃の事になりました。
今では「3丁目の夕陽」を見て、何となく心が温まる光景が懐かしく思われるのは小生だけでしょうか?
築地移転を前に懐かしく思い出しました。
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