「かちどきの渡し」
「かちどきの渡し」は明治38年(1905)に日露戦争での旅順陥落を祝い、当時の京橋区民の有志が渡船場を作り、「勝鬨の渡し」と名付け、東京市に寄付した所からその歴史が始まりました。
当時、月島地区は日本の重工業の中心として、発展途上でしたが、今の佃地区の「リバーシティー」にあった、旧、石川島播磨重工周辺の工場に従業員を運ぶ為、月島の渡しと共に重要な交通機関としての役割を果たしました。
永代橋の下流には「佃の渡し」(佃大橋の北側)、「月島の渡し」(治作の南側)、そして「勝鬨の渡し」(勝鬨橋の南側)の3っつがあり、「橋」はありませんでした。
今の、市場にある立体駐車場の所には、海軍経理学校があり、市場がここに来る前も日本にとって、重要な地域でした。
関東大震災後、架橋運動が興り、昭和15年(1940)6月に「勝鬨橋」ができると共に廃止になりました。
今では、勝鬨橋の変電所跡が「かちどき 橋の資料館」として公開されていますが、この「かちどきの渡し」から「勝鬨橋」の名前が受け継がれています。
地元にいると、いつでも見られるという事から、詳しく見る事などありませんでしたが、正月休みでゆっくり見てみると、新しい発見が数多くあります。
また折に触れて、「灯台もと暗し」の遺構を歩いてみようと思います。
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