「昭和40年代の年の瀬」
今年もあと10日程になりました。
「年の瀬」という言葉も、クリスマスを過ぎないと感じなくなって来ました。
12月30日までに正月の飾り付けをします。一夜(いちや)飾りをしない為です。
玄関の玉飾り。作る仕事師によって、形が違う。
小生の小学校時代、昭和40年の初めごろの事を思い出して見ると、今と同じ事や相当変わってしまった事など色々とありますが当時の事を書いてみます。
その頃は、昭和39年(1964)の東京オリンピックが終わり、その後の不況風が少し落ち着いて、大阪で昭和45年(1970)に開催された「万国博覧会」へ向けて、また日本が一段と戦後を脱して、好景気へ向かうころでした。
暮れの築地は、それはもう毎日車でごった返しており、晴海通りが今より狭く、大渋滞していました。排気ガスでいつも煙ったい感じでした。
昭和49年、市場通り (中央区フォトギャラリーより)
築地4丁目周辺は、二重駐車で荷降ろしをしている車が多く、これも渋滞の一因でした。
本願寺の境内には「よせ物屋」の伊達巻や「蒲鉾屋」のテントが建ち、うず高く積まれた製品があちこちに、山のように積んであり、倉庫代わりとなっていました。今では、衛生上考えられませんが。
本願寺の市場通り側には、今でもいますが、俄か露天商が色々な物を売っていました。
また、プラカードにキリスト教の布教を訴える文言を書いて持っている人たちが築地にも大勢来て、拡声機で布教活動をしていました。なぜか、黒地に黄色の文字で書いてありました。
市場で働く人たちも、今のようにコンビニやファストフード店などありませんから、食堂やラーメン屋、蕎麦屋は忙しく出前も当時は沢山ありましたので、自転車やバイクがひっきりなしに往来しておりました。
家々には、托鉢のお坊さんがやって来たり、25日を過ぎると30日まで曜日に関係なく、休みが無いので、大人は働き詰めでした。
小生兄弟も家業の手伝いを厭々ながらしていました。
手拭を畳んだり、配達の手伝いをしたり、掃除や片づけをしたりと、学校が無いし、友達の家も商売屋が多いので、どこでも子供が手伝いをしているので、遊びになど行けません。
商売をしながら、祖母や母は「おせち料理」の準備をしたり、米屋さんが来て、「お供え」の御用聞きの相手をしたり、鳶職の頭に「正月飾り」を頼みに行ったりと、結構あわただしい物がありました。
また、年末の挨拶に来る人や、親類や職方に持たせる少しばかりの新年用のおかずを用意したり、新しいカレンダーを付け変えたりと、暮れの忙しさは自分の居場所が確保できないほど子供にとっては速く過ぎて欲しい日々でした。
しかし今思うと、とても懐かしく思われます。
29日には鳶職の人が、玄関の玉飾りや門松、〆縄を付けに来たりしていて、また家人は神棚と荒神様の牛蒡〆め(藁で作られた〆縄)を取り換えたり、輪飾りを四本(しほん)柱の部屋に付けたりと、お正月を迎える準備が着々と整えられて行きました。床の間飾りもしておりました。
30日になって、やっと神棚の掃除を始めます。当時ウチには、仏壇は無かったので、神棚の古いお札を剥がして新しいのを貼り、形流しの人型の紙札を体にこすってそれに名前と年齢を書いて、古いお札と一緒に波除さんに納めに行きました。
波除さんで配られる、師走の大祓いの紙の人型。
今でも一夜飾り(31日に正月飾りをすること)は、新年を迎える歳神さまに不礼と言う事で、必ず30日までにするのが良しとされています。
ですから、鳶の頭の「歳の市」のお飾り売りも30日で店じまいするという訳です。
ウチの仕事も、大晦日まであった年もあり、店の掃除がそれからで、本当にあわただしい年の瀬だった時もありました。
市場の商売は30日で終わりますが、本願寺のテントの撤去や大掃除で結構大晦日まで人がおりました。
しかし当時は、大掃除が終わると、帰郷する人たちが大勢、夜行列車に乗って行くので、東京駅、上野駅、品川駅、新宿駅は大混雑のニュースがよく流れていました。
品川駅と言うのは、当時東北方面に帰省する人たちが多くて、上野駅に臨時列車用のホームの空きが無く、品川を始発駅にしていた為です。
年越し蕎麦を食べて、大人はホロ酔いで「紅白歌合戦」でした。
今、思い出せる当時のウチと築地周辺の「年の瀬」の光景でした。
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