「築地精養軒」
明治維新と共に、外国人が多く東京にも住むようになり、西洋料理の需要が高まりました。
三条実美や岩倉具視の支援により、明治5年(1872)2月に丸の内の馬場先門に開業したそうですが、開業当日に起こった「銀座大火」により焼失してしまい、その年の内に当時の築地3丁目で開業したそうです。
明治44年、現在の時事通信社のある所にあった「築地精養軒」
(京橋図書館資料より)
現在の勝鬨橋際にあった「築地ホテル」は、浮世絵にもみられる日本初の本格的なホテルでしたが、同じ銀座大火により焼失し、再建される事はありませんでした。
築地ホテル (京橋図書館資料より)
築地精養軒は、翌明治6年に築地采女町(現在の銀座5丁目)で「築地精養軒ホテル」として開業したそうです。
明治42年に建て替えられた西洋館の建物は、3階建で、客室が32室あったそうで、前に築地川があり、水面に映えて豪奢に見えた事でしょう。
明治45年 精養軒の前には築地川が流れる。
現在は首都高環状線が走っている。 (京橋図書館資料より)
本格的な「西洋料理」を提供するにあたり、スイス人のチャリへスを料理長として招き、明石町の外国人居留地からも多くの客が詰め掛けていたようです。
鉄道も新橋~横浜間が開通し、外国との窓口になる「横浜港」とのアクセスも良くなったので、再建された煉瓦街の銀座と共に賑やかだった事が窺えます。
しかし、関東大震災と共に焼失してしまい、その後再建される事はありませんでした。
上野の精養軒はここの支店として開業し、初めはホテルも営業していたそうですが、その後食事のみを提供するようになったそうです。
築地精養軒からは多くの料理人が巣立って、各地に「西洋料理」が普及して行きました。
「洋食」という言葉も、各地で日本風にアレンジされた「ご飯に合う西洋料理」という事で日本独特のメニューも多く考案されて行きました。
「カツ丼」や「オムライス」などは「洋食」を代表するメニューです。
こうして見ると、築地精養軒から始まった「西洋料理」の文化が、日本の料理文化の発展に、いかに多大な貢献をしているかがよく分かります。
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