「日本劇場」と「数寄屋橋公園」
日本劇場(日劇)は昭和8年(1933)に、今の有楽町マリオンの場所にあった娯楽の殿堂でした。
昭和8年、できたばかりの「日劇」、その手前が「泰明小学校」
まだ、外濠川が埋め立てられていない。奥は「東京駅」方向。
(京橋図書館資料より)
小生の世代では、ロカビリーや日劇ダンシングチーム(NDT),ウエスタンカーニバル、夏のおどり等は名前しか知らない世代ですが、ここの前を通ると、華やかな飾り付けと、有楽町駅から近いので、いつも人でごった返していたのを覆えています。
戦後、「日劇」は、「GHQ」の接収を逃れられた為に、いち早く興行が行なわれ、復興の一助となったようですが、ガード下は色々と、怪しい雰囲気の所もありました。
数寄屋橋付近は本当にいつも賑やかでした。
小生達が「日劇」と言うと、裏のゲームセンターや甘栗屋を思い出します。
「マリオン」が出来てからは、「TOHOシネマズ日劇」という映画館に「名前」だけを残しています。
昭和41年(1966)の日劇 (中央区フォトギャラリーより)
今では「イトシア」が出来て、人の流れが「プランタン」の方へ変ってしまい、「東芝ビル」も解体されて、昔の名残りは、数寄屋橋公園と、泰明小学校位になってしまっています。
解体中の「東芝ビル」 2013、8月
東映の映画館の隣の「銀座教会」も新しくなりました。
昔の銀座教会 昭和56年(1981) (中央区フォトギャラリーより)
数寄屋橋公園は、今でもさほど変わりませんが、街路樹が相当伸びて、明るい感じでは無くなっています。
数寄屋橋公園。 昭和40年(1965) 奥に「日劇」と「旧、朝日新聞社」
「スキヤ橋ショッピングセンター」のタイトルと舗装が懐かしい。
(中央区フォトギャラリーより)
東京オリンピックが終わり、大阪で昭和45年(1970)に開催される「日本万国博覧会」に向けて、まだ、日本が全力疾走していた時代です。
東京には地方からの観光客や労働者も増え続け、銀座や数寄屋橋周辺は本当に活気がありました。映画館も賑やかでした。道路もいつも混んでいました。
数寄屋橋周辺も高いビルがどんどん建ち始め、「数寄屋橋公園」はその中でも憩いを求める人の「広場」みたいになっていました。
昭和42年(1967)の数寄屋橋公園。奥が「泰明小学校」
まだ、都電の線路が残っている。
(中央区フォトギャラリーより)
「FUJIYA」のビルも「SONYビル」も、建て直してからもう随分経っています。
まだまだ、再開発のラッシュは7年後の「オリンピック・パラリンピック」に向けて始まって行くでしょう。
そのうち、昭和の名残りを残す一番古い建物は、「泰明小学校」だけになってしまうかもしれません。
まだまだ変ってゆく、数寄屋橋周辺です。
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