「住居表示変更」 小田原町から築地へ
築地地区が最初に住居表示の変更が行なわれたのは、区役所が築地にあるので、まずここから始めたのでしょう。
もともと築地は1~6丁目と小田原町1~3丁目でしたが、住居表示の変更により築地1~7丁目と浜離宮庭園に変更されました。
旧築地1~3丁目は前は築地川に垂直に1,2,3丁目となっていましたが、変更後は平行に1,2,3丁目となりました。
4丁目と5丁目は変更なし。
6丁目は浜離宮庭園となりました。
小田原町2~3丁目は晴海通りを挟んで築地6丁目となりました。
但し、小田原町2~3丁目は町会がそれぞれあったので、一応、新築地6丁目1番~19番迄は築地6丁目東町会、新築地6丁目20番~は築地6丁目南町会となっています。
小田原町1丁目は築地7丁目に。
これらの町は、選挙の投票所は京橋築地小学校になっています。
波除神社の氏子町も築地市場部分と浜離宮庭園を除いては、同じ祭をやっておりますが、市場が豊洲に移転すれば、波除神社の氏子町に戻ってきます。
小生の町も、住居表示が変わってからは、お祭りの「神輿の駒」も小田二~築六に変わりました。拍子木も変わりました。
築六の駒札が付いている。小神輿。
新住居のプレスされた金属板を付けるようになりましたが、物心が付いてから覚えて使っていた住所が、ある日から変更になったので、とても不思議に思いました。
中央区の住居表示変更は昭和57年(1982)に終了したそうですが、旧日本橋区は、表示にすべて「日本橋○○町」と付くようになりました。
旧京橋区はそれぞれの地区に因んだ名前になりました。
新興住宅地でしたら、住居表示変更は今でもあるかもしれませんが、東京は大規模に住居表示変更を行なったので、旧町名を変更したくない人も沢山いて、決めるのも大変だった事と思います。
住居表示の変更は郵便番号を導入するに当たって、地区を再区分する為に行なわれたそうです。
愛着のある土地名は変わって欲しく無かったでしょうから、名前が変わっても旧町名を今でも会話に使っている人もいますね。
小生も時々使っています。
田舎が無くても、旧町名の時の思い出が田舎の様な気がして、郷愁を感じるのでしょう。時代劇に出てくる町名も同じですね。
「木挽町の、、、」が、「東銀座4丁目の、、、」と言うのでは感じ方が違うのと同じです。
もう住居表示変更をしてから、47年も経ってしまっています。ついこのあいだの事の様な気がしますが、こんな事を書いていると、何時代の人なんだと思われてしまいそうです。
半世紀近く前の、住居表示変更の思い出話でした。
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