「佃大橋」 つくだおおはし
「佃大橋」はもともと、「佃の渡し」として、江戸の昔からあったものが、「佃渡船」という東京都が運営していた無料の渡し船を経て、昭和39年8月27日に開通しました。
明石町側から見た「佃大橋」 まだ聖路加タワーは無い。
(中央区フォトギャラリーより)
それまでは、佃に「石川島播磨の造船所」がありましたが、移転に伴って、ここに架橋計画が立ちあがり、「佃大橋」が建設されました。
橋の開通に当たっては、親子3代が元気でいる夫婦が必ずと言っていいほど渡り初めの先導を務める事になっていますが、これも理由があるのでしょうから、また確かめたいと思います。
佃大橋は、今では「東京マラソン」最後の心臓破りの「難所」として全国にも知られるようになりましたが、地元にとっては、「渡船の廃止」は寂しい物がありましたが、やはりすごく便利になったという印象の方が強いと思います。
月島側では明石町側よりも盛大に開通を祝う式典が行なわれていたようです。
住吉神社の八角神輿が出たり、
(中央区フォトギャラリーより)
(中央区フォトギャラリーより)
鳶の頭連中が木遣り歌で渡り初めをして開業を祝ったりで、それはそれは大変な一大イベントだったそうです。
小生も開通式に連れて行ってもらって、一本歯の高下駄をはいた、猿田彦の面を付けた先振れ人を見た事が、とても印象に残っています。
「佃大橋」の開通により、「佃の渡し」は同じ日に長い歴史を閉じました。
「佃の渡し」の渡り納め。 (中央区フォトギャラリーより)
佃地区は、もともと家康の江戸入府より、「魚河岸」の基礎を作った漁師町として栄えて来ましたが、明治期よりは石川島の造船所ができ、富国強兵の名のもと、重工業の中心地として発展して、居住者が急速に増え、西仲商店街も繁栄して来ました。
渡し船は通勤客を輸送する重要な航路でしたが、やはり渡し船では、人と自転車、バイクくらいしか運べず、車で行くには、勝鬨橋や永代橋の渋滞も慢性的になって来ていた時代背景から、「佃大橋」の開業は待望されていたのだと思います。
橋のデザインは、特徴が無い普通のコンクリート橋ですが、なにより開通当時は歩道部分には階段しか無く、自転車が通行できなくて、今でも川上側には自転車用のスロープはありません。川下側にスロープができたのも最近のことです。
それまで、自転車も渡し船で運んでいたのに、車とバイクには便利になったのに、自転車には却って不便になった印象がありました。
小生が子供の頃、自転車で月島に行くには、勝鬨橋を渡るか、佃大橋の歩道の階段を自転車を持ちあげて渡っていました。
いかに、当時は車の事しか考えていない設計だったかが分かります。
また、勝鬨橋や永代橋はデザインの素晴らしさや機能の特徴もありましたから、尚更、シンプルな設計が当時は最先端のデザインだったのかもしれません。
しかし、佃大橋は明石町側は新大橋通りまでしか延長されず、本来は、首都高との連絡計画があったのですが、事故等もあり計画は止まってしまいました。
これから先はどうなるのでしょうか?
月島側は晴海橋まで延長されて、豊洲方面への利便性はたいへん向上しました。
佃大橋ができてから半世紀が経ちましたが、今もなお月島地区への重要な橋ですね。
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