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2013年8月 3日 (土)

「築南橋」 (ちくなんばし) と 「門跡橋」 (もんぜきばし)

「門跡橋」は、晴海通りの築地川南支川に架かっていた橋で、御存じの方も多くいらっしゃる事でしょう。

橋の銘板が「善林寺」の横に残っています。

善林寺と小田原町交番の間に架かっていました。

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手前が門跡橋で、奥が備前橋。門跡橋の左側の「第六分団」の倉庫の看板が懐かしい。

(京橋図書館資料より)

 

本願寺は、地元では「門跡さん」とも呼ばれ、親しまれていました。

関東大震災の復興事業として、当時の「東京市復興局」が本願寺の参道を横切る形で「晴海通り」を開通させました。

「東京市」はこの橋に当初、「築南橋」(ちくなんばし)という名前を付けました。

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昭和3年6月の開通当時の「築南橋」 (京橋図書館資料より)


しかし、当時土地の有力者だった「佃政の親分」がこれを聞きつけ、「東京市」に掛け合いに行き、橋の名前を「門跡橋」に変えさせたという逸話があります。

聞く所によりますと、「文化財調査報告書」と言う資料には、「門跡橋」の完成は昭和4年となっているそうで、ここに「佃政の親分」の直談判で改名させてからの「門跡橋」の歴史のスタートが残っている様な気がします。

また、「佃政の親分」は、魚市場の不買争議の調停役としても知られていた人のようで、他にも色々な事に携わっていたようです。

本名は「金子政吉」と言って、昭和九年に亡くなったそうです。

いずれにしても、土地にゆかりのある名前がついた「門跡橋」ですが、もうひとつ面白い話があります。

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南支川があった頃の門跡橋、南側より聖路加方向。

(京橋図書館資料より)


以前、首都高速道路の環状線と、晴海とを結ぶ計画があり、今の新富町の出口の下の部分から、当初は「佃大橋」に直結して延伸する計画でした。

工事を行なっていた所、佃大橋方向に掘っていたトンネル部分で、崩落事故が起きて、作業員が数名亡くなりました。

また、計画通りの工事だと、地上に出る勾配の加減で、東京マラソンでも有名な心臓破りの「佃大橋」の登り口にあたる左右の道路を「分断」してしまうという事で、地元からは「大反対」が起きました。

そこで、計画が変更され、いったんは埋めた旧築地川南支川に地下道路を通すことになり、その過程で、「門跡橋」の下には計画倒れになってしまった「首都高晴海線」のトンネルが今も残っています。

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ですから、落橋した橋だと思っていた「門跡橋」はある意味で「現役の橋」なのかもしれません。

南側からは、そのトンネルの一部分を見る事ができます。

今では、中央区が旧築地川南支川部分の土地を所有しているので、豊洲市場への移転をふまえ、「門跡橋」から「波除通り」まで「鮮魚マーケット」を作る工事も始まろうとしています。

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鮮魚マーケットの予定地

数々のエピソードを持つ「門跡橋」です。

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