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2013年8月25日 (日)

「勝鬨橋」 (かちどきばし)

築地と月島を結ぶ「隅田川の第一橋梁」です。

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勝鬨橋が完成する前は「永代橋」が隅田川の第一橋梁でした。

勝鬨橋は、橋の中央が両側に開く跳開橋(ちょうかいきょう)として、昭和8年(1933)に着工し昭和14年(1939)6月14日に完成しました。

元々は月島地区で、”皇紀二千六百年” 昭和15年(1940)に合わせて、日本初の万国博覧会(大阪万博では無い)を開催する計画があり、海外に日本の技術力をアピールする意味で、外国人の技術者を一切いれずにこのような物凄い仕掛けの「橋」が計画され、完成しました。

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万国博覧会の開催予想図が描かれた絵葉書。

まだ豊海地区や晴海地区が無い。

月島と越中島が会場予定地だったようです。

紀元2600年”昭和15年(1940)”に合わせて開催を予定していましたが、日中戦争の激化と共に軍部の反対により、開催を中止する事になりましたが、橋はその前年に無事完成となりました。

「東洋一の可動橋」といわれ、その開く姿を一目見ようと、遠くからも見物客が訪れていました。

大戦中に空襲には遭わなかったようですが、両岸は一部被害を受けました。

完成当時から路面電車の軌道が敷設されていたので、戦後の昭和22年(1947)から都電の運行が始まりました。

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昭和22年(1947)築地側での開通式 (京橋図書館資料より)

築地側の停留所名は「かちどき橋」(今の築地六丁目交差点の両側あたり)で、月島側の停留所名は「月島通り八丁目」(今の、りそな銀行前)でした。

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築地側から月島方面を臨む。 (京橋図書館資料より)

しかし戦後の復興と共に「車社会」がどんどん発達して、完成当初は一日5回の開橋回数がありましたが、小生の子供の頃(昭和40年前後)には、朝の一回だけになっていた記憶があります。

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小型船の通航なので跳開角度が浅い。 (京橋図書館資料より)

歩道にも信号が付いていて、サイレンが鳴り、橋が上がり始めて、跳開角度が急になってくると、中心部から勢いよく道路の砂が落ちてくるのを見ていました。

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一番大きく開いた「勝鬨橋」 (京橋図書館資料より)


上がった橋の間に大型船のマストが通り過ぎる光景は、子供心に「よく、船がぶつからないな!」と思うばかりでした。

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大渋滞の勝鬨橋。手前が月島側。 

              (京橋図書館資料より)

交通量の増大と、通過する大型船の減少により、昭和42年(1967)の通航の為の開橋を最後に「開かずの橋」になってしまいました。

実際は昭和45年(1970)11月29日まで、年に何回かは試験的に開けていたそうですが、この日が本当の最後の開橋になりました。

平成18年(2006)の土木学会関係の調査によって、「開ける機能には問題が無い!」との調査報告も上がっているようですが、再跳開の為には10億円以上の予算が必要とのことで実現はまだ先になるようです。

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勝鬨橋を渡る都電。 奥は豊海方面。

               (京橋図書館資料より)


都電も昭和43年(1968)迄には勝鬨橋を渡る2つの路線(9系統と11系統)が廃止され、線路も架線も撤去されました。歩道の信号機は今も残っています。

開かなくなった「勝鬨橋」でしたが、中央部はその時点では未だ固定されておらず、大型のトラックが通過すると、不自然な揺れが起こって、怖かったのを覚えています。

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築地側の都電があった頃。

                  (京橋図書館資料より)


「橋の色」も暗い深緑の薄汚れている様な色でしたので、お世辞にも綺麗とは言えない外観色でしたので、機能の凄さとは別物でした。

晴海で東京モーターショーが開催されていた頃には、晴海通りが大渋滞で、車の身動きが取れず、「橋はこの重さで大丈夫なのか?」とも思ったものでした。

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勝鬨橋は大渋滞。 (京橋図書館資料より)


バブル期が訪れ、東京都が隅田川の護岸と橋の景観を見直すようになり、「橘右近」さんに橋名を書いてもらって、それぞれの橋が、綺麗にお色直しをされ、平成8年(1998)にはライトアップも始まりました。

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ライトアップされた「勝鬨橋」


色は今の薄いグレーに塗り替えられました。

平成15年(2005)には、築地側にあった変電所を改装して「かちどき橋の資料館」もオープンしています。

平成19年(2007)には、永代橋、清洲橋と共に国の重要文化財(建造物)にも指定されたそうです。 

築地の場内市場が豊洲に移転する事になっていますが、今下流にもう一本の「新しい橋」の架橋工事が市場内を通過するルートで始まっています。

これにより、勝鬨橋の交通量も減少しますし、重要度も減ってきます。

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築地市場内から、環状2号線の架橋工事中。


これは環状2号線(俗に”マッカーサー道路”とも呼ばれる)の工事だそうですが、東京オリンピックの開催でも決まれば、「勝鬨橋をもう一度開けよう!」と言う機運も高まってくるような気がしますし、是非、開けてもらいたいと思います。

元々「勝鬨橋」は皇紀2600年(1940)の記念行事の目玉としての生い立ちからすると、東京オリンピックが再び決まれば、2020年開催となり、ちょうど80年の時を経て、本来の役目が担えるのではないかと思います。

都のオリンピック委員会が対外的に勝手に決めた「ヘリテッジゾーン」(遺跡地区)から会場に渡る「ウェルカムゲート」としては最高の演出が出来るのではないかとも思います。

しかしその大前提として、「ゆりかもめ」を豊洲から延長して、インフラを「骨太」にした晴海地区に通し(ここに選手村が出来る予定地)、環状2号線の橋(新しい隅田川の第一橋梁)と共用させ、新橋に直結させなければ、この演出にも意味がありません。

更に欲張れば、路面電車の復活も「富山県の”富山ライトレール”」の成功例があり、「夢」ではなくなりますし、中央区内の観光の目玉にもなり得ます。

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桜が満開の「勝鬨橋」


路面電車は東京駅の八重洲口から出て、数寄屋橋を左に曲がり、銀座、歌舞伎座、築地、(勝鬨橋) 勝どき、(ここで一方を分岐して車庫を晴海に作ってゆりかもめと連絡させる)月島、佃、(中央大橋付近 ”道幅が狭いので?”) 新川、八丁堀、東京駅八重洲口へと環状線で複線化が出来れば尚更結構だと思います。中央区内だけで完結します。

重要文化財の「勝鬨橋」が再び脚光を浴びてくると確信できますが、これも小生の「勝手な夢」ですので、「築地の将来」を考えた時には実現できたら本当に良いと思います。

子供の頃から見てきた「築地市場」と「勝鬨橋」と「本願寺」ですが、「場内市場」がこの町から移転してしまうのは寂しい限りですが、「勝鬨橋」が世界に名を広める絶好の機会にもなります。

是非、実現してほしい「勝鬨橋」の将来の理想像です。

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コメント

勝どき開橋、路面電車復活、加藤木構想に1票!

藤村さま、コメント有難うございます。

日々、気が付いた事や、感じた事をつらつらと書かせて頂いております。

これからも、よろしければ覗いてやって下さい。

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