「築地本願寺」 その2
築地本願寺はもともと、日本橋横山町あたりにあったそうですが、明暦の大火により焼失、元の土地での再建は許されず、八丁堀の海上を再建の地として幕府から与えられました。
(江戸土産 築地本願寺) 初代広重
(京橋図書館資料より)
良く知られた話ですが、「築地本願寺」と「築地という土地」、そして、「波除神社」は、浄土真宗の門徒であった、佃の漁師たちが海上の埋め立てを積極的に行ったところから歴史が始まります。
延宝7年(1679)には本堂の再興がなりました。当時の本堂は南西方向(場外市場方向)を向いて建てられ「築地御坊」と呼ばれ、末寺、子院併せて、58ヶ寺もあり、荘厳な寺町を形成していたそうです。
(京橋図書館資料より)
関東大震災により本願寺も含め、末寺や子院も焼失し、六ヶ寺を除き再建に合わせて、各所に引っ越してゆきました。
旧、築地本願寺正面 (京橋図書館資料より)
今、本願寺の周辺には5ヶ寺が残っています。
① 村松山 法重寺
② 松籟山 善林寺
③ 天護山 円正寺
④ 称揚寺
⑤ 妙泉寺
いずれも震災前の門前町の方向にあり場内市場の中に溶け込んでいます。
今のインド風の外観を持った本堂は昭和9年(1934)に再建され、 平成23年(2011)、本堂および周囲の大谷石積塀が国の登録有形文化財に登録され、翌年には正式名称が「築地本願寺」と改められました。(別院でなくなった)
都電が懐かしい (京橋図書館資料より)
小生の子供の頃には、本堂の形が珍しいのでよく「はとバス」や「帝産バス」などの観光バスが来ていました。東京観光の名所の一つになっていたのでしょう。
今、場外市場に観光バスが沢山来るのを見る度に、不思議な感じがします。
以前にも書きましたが、「鳩」がたくさんいて、餌をやったり、児童公園に遊びに来たりと近所の子供が多く来ていました。
昭和40年前後と思われる (京橋図書館資料より)
昔とは環境も変わり、盆踊り以外はなかなか子供達が気軽に寄れる所ではなくなってしまいましたが、やはり「本願寺」は築地のランドマークであり続けるでしょう。今後は、子供にももっと親しみやすい寺院であって欲しいものです。
« 「萬祝」 (まいわい) | トップページ | 「大漁旗」 その1 »
「本願寺」カテゴリの記事
- 「重要文化財」(2015.03.15)
- 「ハタハタフェスティバル」(2014.12.02)
- 「本願寺の門扉」(2014.11.20)
- 「盆踊りの縁日」(2014.08.01)
- 「築地本願寺」 その2(2013.08.20)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント