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2013年8月28日 (水)

波除さんでの「お習字」

昭和40年代、近所には子供が多く、路地もあって子供の遊びには事欠かない環境でした。しかし、習い事をする子供が増えて行った時期でもありました。

波除神社では、当時の宮司さんが「書道教室」を開いていて、週に2回通っていました。

20136_004

波除神社

習い事は「6歳になる年の、6月6日から始めると上達する。」という習わしがあって、小生もその日から神社で「お習字」を始める事になりました。

祖母は昔からの言い伝えや、習慣を重んじる人でしたので、こちらは訳の分からないままに通う事になりました。

家業が、筆を持ち、のれんやちょうちん、看板の文字を書く事を必須としていましたので、親よりも、祖父母が後継ぎ教育の為に、孫を通わせたかったのでしょう。

当時は、「長男は家業を継ぐもの!。」と言う、暗黙の縛りみたいなものを、当たり前の様に感じていましたし、祖父母も小生に公言していました。

弟がおりますが、彼は次男なので「お前は将来、勤め人」という風に、今思うと何とも封建的な事を当たり前のように言われておりました。弟は憶えているかどうかわかりませんが?

居職(いじょく) ”住まいと職場が一緒の事”の家でしたから、祖父や父が筆で文字を書いている姿を何気なく見ていましたし、たまに横に座らされてチョットした手伝いもさせられていました。

ですから、筆で文字を書く事は、「人より上手く書かないといけない。」みたいな義務感を幼いながら感じていたのかもしれません。

しかし、基本的には文字を書く事は昔から大好きです。今でも好きです。

お習字に行っても「どの線をどう書くと恰好よく見えるかな。」みたいに、考えながら書いていた様な気がします。(いつもではありません。時々です。)

勿論、子供ですから、こむずかしい事は嫌いでしたので、早く終わって遊びに行きたい訳で、先生の添削もそこそこに飛んで帰っておりました。

波除の宮司さんは、中央区書道連盟の会長もしておられた記憶がありますが、「鳳聲」(ほうせい)と言う雅号をお持ちでした。

当時の人としては大柄で、特攻隊に従軍されていたと言う事を聞きました。しかし、穏やかな方で、子供にもあたりが柔らかく、落ち着きのない小生も、先生の前では、きちんと正座をして、添削をしてもらっておりました。

近所の子供達も何人か通っていましたが、大人も通っていました。

大人の添削をしている先生の文字は、子供心にも「上手い!」(生意気ですが)と思って見ておりました。

小生は、「級」と言う字の「及」の部分が苦手で、「どう書くと恰好よく見えるか?」 と、先生に聞いていた事だけは記憶があります。

小学校の書き初めも1年に1回の大物でしたので、父にも教えてもらいながら書いておりました。

もともと、単純なので、人から褒められると嬉しくて、頑張って書いておりました。

波除さんのお習字は、中学校の途中まで通っていましたが、受験の準備もあり辞めました。

ただ、この経験で、作品をいくら上手に書いても、名前がしっかり書けないと、全部が台無しになってしまうという事だけは学習し、確信しました。

ですから、ウチの子供達にも小さい頃には「名前だけでも上手く書ければ、少々勉強が出来なくても頭が良さそうに見てもらえる!」と言う様に、親の威厳?を振りかざし、言い聞かせていました。

「三つ子の魂百まで」と言いますが、文字に対する向き合い方は、そう変わっていない気がします。研究まではしていませんが。

「江戸しぐさ」にもあるように、江戸の大人たちは、「三つ心、六つ躾、九つ言葉、文 (ふみ) 十二、理 (ことわり) 十五で末決まる。」と言って、子供の段階的教育法を考えて、実践していたのでしょう。

当時、祖父母が小生たち兄弟にさせたかった事は、「江戸しぐさ」の様な実体験をふまえて、独り立ちさせる為の希望を実践させたかったのかもしれません。

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