「東京湾大華火祭」
東京の花火大会のトップは何と言っても「両国の川開き」でお馴染みの「隅田川の花火大会」が全国的にも知られています。
両国川開き
今年は生憎途中から、大雨が降って初の途中中止になりました。
「東京湾大華火祭」は昭和の終わりのバブル期全盛の昭和63年(1988)から、中央区が主催で始まった花火大会です。
実は中央区で両国の花火が川岸で見る事ができるポイントは、浜町の一部くらいしかありませんでした。
区内は高層ビルばかりで、新大橋から清洲橋にかけて隅田川が蛇行しているので、江東区の佐賀町あたりからしか下流では見る事ができませんでした。(高層ビルの屋上は別ですが)
当時はまだ「レインボーブリッジ」が建設中で、お台場も今の様な観光地にはなっておらず、豊洲には石川島播磨 (I H I ) の巨大造船所が稼働していて、芝浦地区も倉庫街の名残りが多くみられ、人がほとんど住んでいない地区でした。
(京橋図書館資料より)
晴海から豊洲を臨む。鉄橋以外、今とは全く違う風景。
鉄橋のすぐ右に石川島播磨(I H I )の造船所が迫る。
今でしたら、中央区内より港区内の、汐留地区、お台場地区、江東区の豊洲の方がビューポイントが沢山あります。中央区内よりも良く見えるベストポイントも数多くあるでしょう。
当時、中央区は人口の流出と減少に危機感を持っていて、「人口増の施策の一環」として、また「在住区民にも花火を見せてやろう。」という区長をはじめ各関係機関の英断で、中央区が主催する花火大会が始まったという事だそうです。(予算の関係は不明ですが、税収はあったのでしょう?)
打ち上げ会場は晴海埠頭南端の東京湾上の台船からですが、両国より川幅が広く、周りにも危険が少ないとのことで、大玉を打ち上げる事ができ、仕掛け花火もあって、両国とはまた趣の違う、派手な花火大会になりました。
当時、小生は月島に住んでいましたので、ベランダから花火見物を楽しみました。今思うと、贅沢で懐かしいです。
両国の花火が復活した頃から、川の汚染も回復してきて、バブル期も訪れ、隅田川の護岸も、遊歩道として整備され始め、「カミソリ堤防」は姿を消して行きました。
また、橋のライトアップも始まり、昔のように「川に親しむ」という風情が見直されてきた時代でした。
第1回から晴海埠頭には観覧席も設けられ、お年寄りや区内の希望者などがゆっくり見る事ができる場所でしたが、「両国」と同じ感覚で見に来た一般の人たちはとても大変でした。
勿論、大江戸線もゆりかもめも無い時代でしたし、トイレもコンビニもほとんど無く、都バスも本数は少ないし、車で来たら抜け道などありません。
他地区への移動は、晴海橋、佃大橋、相生橋、勝鬨橋の4つの橋のどれかを通らなくてはなりませんでした。今でも中央大橋と晴海大橋が増えただけですが。
(京橋図書館資料より)
右下が晴海埠頭。右上の橋が「勝鬨橋」
当時から、いかに抜け道が無いのかが分かる。
花火が終わっても2時間くらいは晴海地区から出られなかったという話も聞いたほどでした。
今でも終了後の混雑を思うと、あまり近くへ行って見る気がしませんが、花火は、おなかに響く「音」と、まじかで一瞬で終わる「光」が最大の魅力です。
「東京の三大花火大会」のひとつにもなっているそうですが、オリンピックが招致されたらまた大変な派手な大会になるでしょう。
しかし、旧盆のこの時期には、祖先や諸精霊に想いを馳せるという事も少しは思いつつ開催されるのを期待します。
「東京湾大華火祭」が夏の風物詩の一つとして、末長く続いて行ってほしいと思います。
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