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2013年8月31日 (土)

「聖路加病院」

本当の所在地は明石町ですが、”築地”の「聖路加国際病院」って言われますね。

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現在の保存された、旧病院のタワー。

マンションなどは、築地にあるのに「○○○東銀座」と言われるのと似ています。

小生は、聖路加で産まれました。子供の頃、家の3階から見える高い建物は、「東京タワー」と「本願寺のうす緑の屋根」それと、「聖路加病院」の塔の部分でした。

今思うと、当時最新の電波塔、歴史のある寺院、そして異文化の十字架が載った病院。何とも不思議な感じです。

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昭和36年(1961)の正面玄関  (京橋図書館資料より)

聖路加病院は、明治35年(1902)にアメリカから派遣された宣教医師、ルドルフ・トイスラーが小さい診療所をこの地に興したのが始まりです。

もともと、この地区は、明治の初めに外国人居留地とされ、主にキリスト教宣教師の教会堂やミッションスクール、外国公館が置かれた為に、診療所も作られたのでしょう。

パン屋も築地7丁目に、銀座キムラヤの工場があったり、チャリ舎(しゃ)というフランスパンを焼く工場もありました。

昭和8年(1933)にこの建物が建てられ、平成4年(1992)に現在の新病院が建てられるまで第一線の総合病院として機能して来ました。

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築地川南支川から見た聖路加。右が堺橋で左が暁橋。

昭和7年(1932)建設中。   (京橋図書館資料より)

 

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昭和7年(1932)建設中の「聖路加病院」

左の橋は南明橋。今の築地児童館あたりから見た写真。

             (京橋図書館資料より)

第2次世界大戦中は米軍が終戦後に接収する目的があり、爆撃の目標から外していた為に、旧小田原町(現、築地6・7丁目)と明石町は大きな被災を免れました。

昭和30年(1955)まで米軍極東中央病院として使用されましたが、この年に返還されて大型総合病院として現在に至っています。

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2つ上の写真と同じ所、干物が干してあるのが何ともミスマッチ。

               (京橋図書館資料より)

小生が4歳くらいの時、母が妹を出産する為に聖路加に入院する事になりました。

毎日のように、正面玄関真上の4階か5階にある産科病棟にいる母に、下から大声で呼んでは、母が気付いて手を振ってくれていたのを思い出しました。

正面玄関は、主に見舞客の通路になっていて、看護婦の油絵などが飾ってあり、床は白黒の石材が正方形の千鳥格子状になっている様な意匠でした。

ホルマリン臭いのと、正面奥には、給食調理室があったので、その混ざり合った匂いが何とも言えず、見舞に行くと必ず漂っている「聖路加」独特の臭いでした。

皇室とも繋がりが深い病院のようで、皇族も何人かここに入院されておりました。

平成になると、新病棟が建設されることになり、一時はこの旧病棟も壊されそうになりましたが、保存の声が強く、中央部分は保存される事になり、現在は東京都選定歴史的建造物の選定を受け現在に至ります。

正面左側には現在、聖路加看護大学が入り、文化祭の「白楊祭」(はくようさい)も行なわれています。

魚河岸という騒がしい環境と、明石町という閑静な環境が不思議な一体感を醸し出している中で成長して来ましたが、江戸からの「魚河岸文化」と、外国人居留地の中で「○○発祥の地」などの「ハイカラ文化」が融合していて、ここは日本にあっても、とても面白い場所だなと「今」、特に思います。

聖路加タワーの下の河畔をはじめ、隅田川には多くの人が川べりを散歩する風景が日常になっています。

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奥が聖路加タワー、中央が新病院。

遊覧船も数多く運航されるようになり、隅田川周辺は東京観光の目玉にもなっています。

訪れる観光客は日本人ばかりではなく、外国人も数多く訪れています。

明石町は何より「○○発祥の地」の石碑が本当に沢山あります。

銀座や築地ばかりではなく、明石町の歴史散歩をするも一興かと思います。






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コメント

聖路加病院…、直接お世話になったことはありませんが、草野球をするために行った「あかつき公園」のランドマークでした。夜になるとライトアップされていたと思います。

病院の近くには保健所があり、ここで予防接種を受けました。当時、建物は木造で、階段をあがるときにミシミシと音がしてミステリアスの感じがしました。

7丁目と明石町は、京橋郵便局付近に住んでいた私にとっては、異国でした。

あさかぜさん、古い保健所は憶えています。

築地小に通っていた子供は、学区域が違うので、あまり明石町では、遊びませんでしたし、静かな所でしたので、あまり行かなかったです。

コメント、有難うございました。

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