「萬祝」 (まいわい)
小生の店では、「大漁旗」を扱っているので、子供の頃から「旗」の柄はよく見ていました。染め上がった「大漁旗」を両国駅まで父の車で引き取りに、よくついて行きました。
柄は鶴亀や宝船など共通の部分もありますが、「萬祝」は物凄く柄が繊細なのに驚いておりました。
「萬祝」は江戸中期の1700年代後半から、各種の文献に登場するようですが、極彩色の繊細な「萬祝」が登場するのは明治に入ってからの事と想像します。
(白浜海洋美術館資料より)
元々、千葉の「萬祝」は、イワシ漁と関係が深く、銚子から九十九里にかけての太平洋沿岸を中心に、西は焼津あたりから、北は青森あたりの三陸沿岸まで網元や船主から船子たちに贈る習慣がありました。
江戸末期から明治期にかけて、イワシ漁の漁法が発達し、とんでもない年に千両以上「大漁」の場面があり、網元たちは、染物屋に関係者の数量分を発注し、反物として配ったそうです。子供用の物もあったようです。
女たちがそれを背格好に合わせて、袷仕立てをして、その翌年の正月二日に網元をはじめ、皆でそれを着て初詣。ねじり鉢巻きで萬祝を羽織り、帯はせず、裸足か白足袋でいるのが正装だったようです。
(白浜海洋美術館資料より)
その後三日三晩網元の家で飲み明かし、主従の絆を深めて行きました。新造船の進水や海の神様へのお礼参りにも皆で着ていたそうです。
あくまでも、儀式の時にだけ着る「漁師の晴れ着」でした。
「萬祝」は、絹で染めた物もありますが、主に、木綿を使い、藍染で地色を染め、型で柄の境界線に「糊」を置き、細かく色を差し分け、極彩色に染め上げる技法で鮮やかに仕上げられます。
明治以後は、絵師も江戸幕府が崩壊して、狩野派をはじめとする奥絵師たちも職を失ったので、漁師の「晴れ着」である「萬祝」の繊細で迫力のある下絵を描く者もきっと多くいたはずです。
それでなければ、一紺屋職人ではこのような下絵を描く事はできません。
染める事が本業なのですから、まず染物屋が網元などから注文を受け、内容を絵師に伝え、型屋がそれを彫り、最後に染物屋が、それを染めるという分担作業になっていたはずです。今でも工程はさほど変わっていません。
以前、千葉の旭市にあった紺屋さんにお邪魔した時に、型や反物を見せてもらい、当時の、紺屋がどれだけ「萬祝」の仕事を請け負った時が大変だったかを聞いた事がありました。
(白浜海洋美術館資料より)
紺屋は、土間が仕事場ですが、糊を置いた反物はいつまでも染めずに置いておくことができません(糊が乾いてひび割れる)から、分業で色差しをして数をこなすのですが、納期の事があるので夜遅くまで仕事をし、土間でそのまま寝る事もあったと聞きました。
それだけ、多くの注文があったという事です。
しかし、時代の流れで、第二次大戦をはさみ、昭和30年代の終わりごろ迄には、だんだんこの習慣が失われて行きました。ジャンパーや背広を贈るようになっていったそうです。
一時は紺屋も染色技術を持った職人も減り、昔の「萬祝」だけが残るという感じになりましたが、今も千葉には何人か「萬祝」を染めている職人さんがいます。
以前、小田原城特別展で「萬祝」の展示があり、図録を買いましたが、千葉と相模湾あたりとでは、歴史も違い、「萬祝」を贈るきっかけの「魚種」も少し違っていた様です。しかし、色柄や家紋、荷印を入れる習慣は同じようでした。
地方地方で、色々な慣習が加わり、独自の使い方もあったのでしょうが、意外に漁師たちは、距離の遠近を超えて、横の繋がりがあったのでしょう。
「萬祝」は単なる「晴れ着」としてばかりではなく、装飾品としても価値があるデザインだと思います。ただ、下絵師がもういないので、見る物を唸らせるような迫力のある新作は、これから出てくるでしょうか?期待したいです。
使い方が変わっても是非、後世に伝えていってほしい「萬祝」です。
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