「京橋」 その2
文明開化と共に、街並みも「煉瓦街」が象徴するように近代化に向けて変化して行きました。
「京橋」も交通量が増え、明治38年(1905)、大正11年(1922)の2度架けかえられました。
大正11年に架けかえられた「京橋」の銘板。
銀座の大火を教訓にして「煉瓦街」を築き、日本の繁華街の中心として発展してきた「銀座」ですが、大正12年(1923)、関東大震災によりまたも灰塵に帰してしまいました。
「京橋」は震災には耐えましたが、煉瓦街は、二階が木造だったリして、壊滅的な打撃を受けました。
大正の「京橋」の親柱
この震災以来、耐震構造の鉄筋コンクリートの大型ビルが、銀座にも多く建つようになり、「銀座」は賑わいを取り戻しました。
(京橋図書館資料より)
昭和9年(1934)には地下鉄が浅草から新橋まで開通して、落ち着きを取り戻したのもつかの間、今度は太平洋戦争で銀座も空襲を受け、多くの人や建物も甚大な被害を受けました。
小生の祖母と父も銀座で空襲に遭い、逃げた方向が幸いして、被災を逃れられたということです。
戦後の銀座は、服部時計店(現、銀座和光)の前の進駐軍の画像にも象徴されるように連合軍の統制下におかれましたが、朝鮮戦争の特需にも助けられ、目覚ましい復興をして行きました。
「京橋川」も昭和34年(1959)に埋め立てられ、「京橋」も橋の親柱と町名にその「名」を残すのみとなり、川の上には「東京高速道路」が開通して、今の様な景観になって行きました。
昭和35年(1960)に完成した 「東京高速道路」
(京橋図書館資料より)
今ではただ「通過する道」と「駅名」となりましたが、昨年には再開発に伴い、新しい複合ビルがどんどん建ち始めています。
新たに脚光を浴びている街でもあります。
歴史のある町が本当に沢山ある中央区です。また色々と見て行きたいと思います。
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