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2013年7月19日 (金)

「下り酒」

東京駅から列車に乗る時、出発する列車は山手線などの一部を除き、全て「下り列車」ですが、江戸時代は、上方から江戸に来る物資は「下りもの」と呼ばれていました。

特に「酒」は「下り酒」と呼ばれ、高級品でした。

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日本橋川に架かる豊海橋から永代橋を臨む。

この周辺に酒問屋の蔵が数多く建ち並んでいたそうです。

今の新川あたりには、上方からの「下り酒」を商う蔵が多く建ち並んでいて、、茅場町や、箱崎町あたりには今も酒造メーカーの東京支店が多くあります。

主に「摂泉十二郷」(せっせんじゅうにごう)とよばれる、摂津、泉州の産地で生産された酒は味も良く、江戸では珍重されたそうです。

諸白(もろはく)と言われた、白い麹と白い米で作られた酒は更に上質で、高値で取引されたそうで、今も残る「剣菱」は伊丹で作られ、江戸初期から、将軍の御膳酒にも指定されていたそうです。

当時は船で輸送されていたので、杉樽に入った酒は程良く杉の香りが移って。熟成も進み、江戸に着く頃には、とても旨い「下り酒」になったそうです。

幕末頃には伊丹や池田を抑え「灘」が銘酒産地の代名詞ともなり、上級酒の産地として名を轟かせました。

醤油や木綿などは幕府の奨励策もあり、上方と同様、またそれ以上の品が出来るようになったのですが、「酒」に関しては幕末まで「下り酒」が上等だったようです。

船での高い輸送費をかけて上方から江戸へ来る品物はすべて上物だったので、関西周辺で同じような物を作っても上物と認められない品物を「下らない物」と言って、江戸には当然送られませんでした。

「下らない」の語源はここから来ています。

全国には、ブランド酒になっている銘柄が数多くありますが、江戸期には「下り酒」が一流の証しでした。

江戸では酒飲みが多くいたようですが、「下り酒」が飲める人達は、武士や一部の上流階級の人に限られていたのでしょう。

中央区の歴史は奥深いですね。

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