子供の頃の「お祭り」
昭和30年代の後半から、40年代のなかば迄が子供の頃の「お祭り」に一番思い出がある時期です。
(京橋図書館資料より)
海幸橋の下にまだ川が流れておりました。波除神社も、まだ石の神明造りの鳥居が左側に小さく見えます。奥の煙突は経理学校の跡地の名残りです。
当時はまだ、2~3年に一度しか本祭りがなったので「お祭り」が楽しみでした。
当然、縁日が一番楽しみなのですが。
娯楽もまだそう多くはない時代でしたから、大人も子供も「お祭り好き」が沢山おりました。小生もそのうちの一人でした。
奉賛金の芳名板が貼られると、各町に神輿を飾る神輿小屋の製作が始まります。ウチの町は鳶の頭が作っておりました。
町の役員の若い衆が神輿や獅子頭を準備して、御神酒所の飾り、小さい庭も作っておりました。まねき手拭も沢山飾られておりました。
晴海通りにはまだ、「勝鬨橋」という都電の停留所がありましたので、小さな商店が沢山あって、この界隈は賑やかでした。
(京橋図書館資料より)
築地6丁目(旧、小田原町二丁目)。商店が多く見える。
この撮影場所のすぐ右が今の「スカイレジテル」
バスの左側が今の「築地食料販売」 米俵が見える。
奥に、「火の見櫓」が見える所が今の「日刊スポーツ印刷社」
各家には、軒提燈と軒花が飾られ、短冊が風に揺れるのを見ると「お祭り」の始まりです。
(京橋図書館資料より)
築地町自治会の子供神輿、右側の提燈があるのは「つきぢ田村」。
奥の石造りの建物は東京三菱UFJ銀行。
中ほどの看板建築の「TAILOR」と書いてある建物は今も健在。
当時、ウチの町は子供が多かったので、男の子は中小の神輿、女の子は雌雄の獅子頭を担いでおりました。
皆、浴衣を来て捻り鉢巻きでしたが、小若の半纏を着た子供も何人かおりました。肩を入れて担がないと怒られるので、タオルを入れて担いでいたのを憶えております。担ぎ終えた後の「お菓子」が楽しみでした。
「お祭り」になると、親戚や知人が多く訪れ、祖母や母は大忙しでした。
子供達は連れだって、縁日の偵察と買い食いを楽しみました。
「京橋築地小学校」がまだ、「築地小学校」だった時代、新大橋通りに面した部分に「築地公園」があり、神社神輿のお旅所になった事もあるそうです。
大人の担ぎ手が少ない時代でもありましたので、今の様な完全な宮渡しは行なわれていなかったと思います。
築地7丁目あたりの神社神輿の渡御。
まだ、「築地川公園」が川だったので左奥に「暁橋」が見える。
聖路加が奥に見え、町衆も「波除」の半纏。
綿あめ、焼きそば、たこ焼き、金魚すくい、あんず飴、は定番ですが、縁日には怪しい露店がいくつも出ておりました。
友達を「サクラ」にして、「切り傷」がすぐに治る「軟膏」とか、スプレーでカラフルに塗った雄の「ひよこ」を「卵をたくさん産む」と言って売っていたり、当たりくじが無い福引きなど、今思えば、子供だましの詐欺その物の商売でした。
今だったらすぐに警察に連行ですね。
しかし、どことなくそんな露店が懐かしい感じがします。
波除さんのこの頃の縁日と、本願寺の縁日については、また書きます。
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