「築地本願寺」 その1
子供の頃、本願寺は子供達の遊び場でした。
境内は、今の様に駐車場は無く、晴海通り側に児童公園もあり、タワーの様な鳩小屋が2基建っておりました。
鳩に餌をやりに小さい子が多く訪れ、児童公園には「すべり台」、「立ち漕ぎブランコ」、「着座のブランコ」、「シーソー」、「球体のジャングルジム」や「砂場」もあり、年寄りが孫を連れてきたり、小学生がたくさん遊びに来ておりました。
春になると、ツツジが綺麗に咲いていたのを覚えております。
葬儀が行われる時以外は、車もほとんど無かったので、安全な遊び場でした。
正月には凧揚げもできました。
(京橋図書館資料より)
子供が自転車で遊びにきており、右手前に児童公園がありました。
その頃は、本願寺、”築地別院”だったと思います。
本堂の左右にある石の手すりのライオンの様な狛犬も子供達の遊び道具になっておりました。
狛犬の背中に登ったり、手すりの外側を登ったり、「ジャンケングリコ?」などをして、階段で遊んだりしておりました。
”ジャンケングリコ”は本当は何というのか分かりませんが、じゃんけんをして、
「グー」で勝ったら、「グリコ!」といって3段登ります。
「チョキ」で勝ったら「チヨコレイト!」といって6段登ります。
「パー」で勝ったら「パイナツプル!」といって6段登ります。
速く上まで登った方が「勝ち」です。諸兄もやった事があるでしょう。
本願寺には大型の記念碑も多くあり、みんな子供の遊び場になっておりました。
防空壕の入り口もあり、門跡の頭(本願寺の仕事をしている鳶職の人)が、資材置き場に使っておりましたが、普段はカギがかかっており、そのスロープに登ったりしていましたが、たまに入り口が開いていると、暗い階段を友達と「探検」と称して、不法侵入していました。
ここは戦時中、向かいの築地小学校とトンネルで結ばれていたそうですが、地下鉄、日比谷線の工事で地下部分はすでに寸断されてしまっていたようです。
以前、NHKの「ブラタモリ」でタモリがマンホールを特別に開けてもらって取材していたのを懐かしく見ておりました。
当時の、本願寺の御住職の方をはじめ、関係者の御理解があったからこそ、広い境内を子供の「遊び場」として開放してくれていたのだと思います。
花まつりには、「甘茶」が出たり、「カブスカウトやボーイスカウト」などの活動も盛んに行われておりました。
同級生には、本願寺の関係者の子供もいましたが、さすがに過激な遊びを一緒にはしませんでした。当然、禁止されていたのだと思います。
廻りの環境も、高度成長期で、子供が安心して遊べる場所も無かったことから、ここは本当に良い環境でした。
(京橋図書館資料より)
昭和30年代の後半から40年代の初めの頃だと思われる。
築地4丁目の交差点、都営バスが卵色に赤のラインが入っている頃。
ボンネットバスも写っていて、まだ、晴海通りに都電の線路が残っているようです。
手前側は市場通り。左奥に聖路加病院が見える。
なかなか、今では子供が怪我をしたりすると、管理責任がすぐに問われる世の中になってしまいましたが、当時はよほどの事が無い限り、自己責任でした。
子供は自分たちで、遊びを考えたり、遊び場も見つけたり、上下関係もあって、窮屈な面と、有難い面とがありましたが、「本願寺さん」の様に寛容に子供達を見守ってくれた施設があった事がいま、地元の「寺院」が身近に感じられる根源になっているように思えます。
「本願寺」については、まだまだ書きたい事がたくさんありますので、またの機会に譲ります。
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こんばんは
本願寺は、低学年のころの遊び場の一つでした。敷地内の公園で「缶けり」などをしてよく遊びましたが、丸っこいモニュメント?に上ったり、お寺の中を巡ったりと、今なら叱られそうなことを平気でしていた記憶があります。
また、映写会で「変身忍者嵐」をみたような気がします。
縁日も懐かしい思い出です。
特に落雁の薄っぺらいスクエアな中にある型(案山子や傘など)を安全ピン?のようなもので見事形作ったら何かが当たる出店にはまっていました。
あれほど長く感じた香具師の通りが、今そこに立つとそれほどでもないことに、一抹の寂しさを感じます。
投稿: あさかぜ | 2013年9月13日 (金) 23時36分
あさかぜさん、ありがとうございます。
缶蹴りは、小学校の隣の、築地公園でしておりました。
いつも最後に「鬼」になっていたのは同じ友人でした。
型抜きは、針の先をなめたりして、やっていました。
傘の柄(え)の所でいつも折れていたのを思い出しました。
型抜きの成功報酬は、景品からお金に変って行った記憶があります。
投稿: 築地 魚がし 小田原町 | 2013年9月15日 (日) 06時16分