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2013年4月 3日 (水)

「魚河岸」の名物親父

昭和30~40年代頃までは、築地には「名物親父」と言われる人が結構いました。

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(松葉目の柄) 参考までにこれは板に直書き。

 

お座敷芸が高じて、自宅に舞台迄作った仲卸の旦那。松葉目の柄を入れた舞台幕を取り付けについて行きました。

子供の頃には、酔っ払いは勿論。何しろ当時(昭和40年代前半)は午前中で仕事が終わってしまうので、場内の食堂で一杯引っ掛けて、用も無いのに酒臭いまんまでうちに寄ってくる人もいました。(お客では無い)

相手はご機嫌なのですが、小さい小生にはとても嫌でした。自宅が近所だったのでよく来ていました。

もっとも、うちの祖父もお酒が好きで、よく外に出掛けると”変身”して帰ってきていました。

当時「酒場」という、のれんがかかっていた店が結構ありましたから、今の「居酒屋」と違って、昼から飲んでいる人が結構多かったのでしょう。もっとも、日本酒がメインでしたから。

市場はまだ、漁船から直接築地へ荷揚げもしていたので、船員たちが漁具や水、食料、衣料品等々、また漁場へ向かう為の装備品や日用品の準備もしておりました。たまに、陸に上がって来たのですから心行くまで酔っ払いたかったのでしょう。銀座も近いので、酔って大声を張り上げていた人も沢山いました。

朝が早い町ですから、夜の大声はとても響き渡っておりました。

面白かったのは、鮮魚店の旦那で、時々寄ってくれるのですが、手品を一つ見せてくれました。リピートをお願いしてもやってくれません。ですから、その旦那が来るのが楽しみでした。小生が小学校に入るころには、もう来なくなりましたが、、、。

また、銭湯で逢うと、必ず男の子の「ちんちん」を引っ張る青果商の旦那もおりました。向こうはからかっているつもりなのですが、こちらは「遭わなきゃいいな。」といつも思っていました。ですから、その旦那から離れて湯船入っていました。

銭湯には刺青をした人もいましたが、当たり前の光景でしたので、「絵」が綺麗とかいうよりも「痛くなかったのかな?」という感じでした。今とは、見方が違いますね。

隣り近所が本当に近く、親しい時代でしたから、こんな事も今では懐かしい光景です。

「名物親父は遠くなりにけり」ですね。

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